とはいえ、起業した企業の成長に伴って栄一の資産は結果的に膨らむことになり、栄一の死後にそれを巡って財産争いが起こることも考えられるようになった。そのため、
1891年に同族会を組織して、栄一及び一族の財産の管理・運営方法を定め、栄一が財界を完全に引退する前年の
1916年に
持株会社である渋沢同族株式会社(資本金330万円)を設立した。これが財閥形成の契機とされているが、系列企業の対する株式保有率は極端に低く、栄一の死から5年後の
1936年の資料によれば中核企業である第一銀行(嫡孫で社長の
渋沢敬三が
常務、取締役で娘婿の
明石照男が
頭取を務める)で2.9%、
石川島造船所で1.9%、
東京貯蓄銀行で16.5%、最も比率の高い
澁澤倉庫でも26.2%に過ぎず、他の財閥のように発行株式の過半数を保有する企業が存在しなかった(なお、この時の資本金は1,000万円、払込資本金は625万円である)。従って、財閥としての形態は他と比べると薄く、財閥の主要要素である系列企業の支配が貫徹されていないために、財閥として扱う事を疑問視する見解もある。
1943年三井銀行と第一銀行の合併(
帝国銀行となる)により中核企業を失う。