武蔵野台地の東北端手前約15
km付近の平坦部に位置する。市域は、約6.5km×2kmの狭長の地で、その長軸は
台地の傾斜と向きを同じくし、西高東低の地形をなしている。
標高は、西方の竹丘(たけおか)地区で65
m、北東の下宿(したじゅく)地区で20mと、6.5kmの間に45mの標高差がある。市域北部を流れる柳瀬川によるわずかの
沖積低地があるが、それ以外は
洪積台地が占める。柳瀬川に沿う中里(なかざと)、下宿地区は、柳瀬川の低地より5〜10m高く、清瀬旭が丘
団地付近の台地よりも10〜15m低い標高25〜30mのテラス状になっており、下清戸(しもきよと)、中清戸(なかきよと)、上清戸(かみきよと)地区から
西武鉄道池袋線周辺の
市街地へと続く広範な台地である。団地北側の崖面からみると、6mほど
関東ローム層が堆積し、その下は武蔵野礫層が
堆積している。
清瀬市域に最初の人類が現れたのは、
ヴュルム氷期の約2万年前である。下宿強清水(したじゅくこわしみず)遺跡と野塩西原遺跡にその痕跡を残している。
縄文時代に入ると、人口は中期を頂点にして増えたが、後期以降は皆無に等しくなった。その後
平安時代中期までこの状態が続いた。人口が増える平安時代後期になっても、居住地域は柳瀬川に近い現在の野塩、中里、下宿にとどまっていた。この時代はまだ
井戸を掘る技術が発達しておらず、深い井戸を掘ることが難しかったために川に近い場所に人が集まったものである。