天明3年(1783年)に
検校となり、
寛政5年(
1793年)、幕府に願い出て
和学講談所を開設。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『
群書類従』である。また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの
東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。同所の出版している『
大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、
文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(
1821年)2月には総検校になり、同年9月に死去。四男
忠宝が跡を継いだ。
・昭和の名人と呼ばれた落語家、
桂文楽がなくなる十数年前、胸をわずらったことがある。不吉なものを感じた文楽は、
四代目柳家小さんの妹が「拝み家」をしていたことを思いだし、彼女にところにいって占ってもらった。すると「えらい坊さんが出ました。その坊さんは塙保己一と名乗り、文楽はまだ大丈夫だと語った」とお告げが出た。そこで文楽は、保己一の墓にいってすっかり汚れている墓をきれいにした。寺の住職に過去帳をみせてもらうと、同行していた
五代目柳家小さんがその系図の最後の人を指差し、「この人は軍隊のときの自分の上官です。随分なぐられました」と語った。(
宇野信夫『私の出合った落語家たち』(河出文庫)より)