1939年、丹下は雑誌『現代建築』に論文「
ミケランジェロ頌 ― ル・コルビュジエ論への序説として ― 」を発表し、つづく
1941年に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館
[代々木にある同名の建物とは別物であり、現存しない。]の設計を担当するも、その名が一躍世に知られるようになったのは、
1942年の
大東亜建設記念営造計画[大東亜建設記念営造計画は誤って「造営」と表記される事も多いが、正しくは「営造」である。画像情報:外部リンク参照]コンペと、それに立て続いて一等入選を果たした、1943年の在盤谷日本文化会館計画コンペによってであった。
特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画 ― 主として大東亜建設忠霊神域計画 ― 」は、
横山大観風の日本画を想わせるパースペクティブ(透視図)ともあいまって、建築学会の若手を対象にした懸賞行事で、本来実施案となり得ないこの地味なコンペをして、人々の記憶に後世まで留められることとなった。